活字屋さんを訪ねて

 活版印刷に興味を持ったのも、その原点をたどれば「活字」にあるのだと思う。
 活字には「本」という意味もあるが、私は本が好きだった。その中でも少し昔の本は、印刷や書体の風合いが違っていた。それこそが活字だった。

 活字とは、活版印刷用の字型のことだ。
 この活字を組版して、活版印刷機にセットして、印刷する。活版印刷は、凸版印刷だ。もっとわかりやすく言うと、版画だ。活字にインクを乗せ、そこに紙を合わせて刷る。とても単純。

 私にとっては、一つ前の世代のもの。
 だけど、今も活字屋さんはあるらしい。東京へ行くに当たって、数件の活字屋さんをメモしておいた。
※ネットで調べる限りは、神戸・大阪に活字屋さんは見当たらなかった。

 新御徒町駅から徒歩数分、小学校の裏手に大栄活字社はすぐ見つかった。
 なぜ、大栄活字社にしたのか?と言うと、もちろん、理由はある。ウェブサイトもなく、インターネット上にもほとんど情報がない。変に思われるかもしれないが、それが理由だった。

 飾らない外観。
 昭和からほとんど変わらないだろうと思われるお店。

 初めて訪れる一個人にも関わらず、お店の人はとても丁寧に対応してくれた。
「明朝はこれ、ゴチックはこれ……」と説明してくれる。ゴシックじゃない、ゴチックなのだ。そんなところにも、あの風合いを感じてしまう。
 見本や名刺は活版印刷で刷られたものだけど、もちろん、今風の印刷ではない。凹みのないキレイな印刷だ。キレイとは言っても、オフセット印刷やデジタル印刷のように均一ではない。どうしても出てしまう掠れや、書体に、ここが令和でない気がしてしまう。

 書体はパソコンに取り込まれ今はフォントとなって均一化されたが、この活字は同じ明朝体やゴシック体であってもサイズが違えば字体が微妙に異なる。それは、文字サイズによって可読性が変わるからだ。意図的に変えられている。

 一本出しもしてくれるとのことで、「この文字をください」と注文する。
 記念?
 いやいや。いずれ、テキンに組版して、刷ってみたいという思いはある。

「中に入って、写真撮っていって良いよ」と優しく言ってくださる。お言葉に甘えて、店の奥へ失礼する。私のように訪ねてくる趣味人も、そこそこいるのだろう。
 店の奥には、所狭しと棚が並べられ、その中に活字が収められていた。
 お店の人はあっちへ行き、こっちへ行きし、私の注文した活字を拾ってくれる。

 夢中だった割には、ほとんどカメラのシャッターを切ってはいない。一日中居ても飽きなかっただろう。振り返ると、何故もっとシャッターを切っておかなかったのか、とも思う。
 ただただ、その空間に圧倒されていたのかもしれない。

 少し前に『本をつくる』という本を読んだ。谷川俊太郎の詩集をつくる過程を収めたドキュメンタリーだ。
 その本によると、もう日本には母型をつくる職人さんはいないそう。(金属)活字は鋳造によりつくられる。溶かした金属を流し込む活字の型が母型だ。つまりもう、日本に新しい活字が生まれることはない。
 ここにある活字も、他の活字屋さんにある活字も、すべては何十年か前に設計された書体。
 活字に風合いを感じるもう一つの理由はそこにある。書体自体がもう昔のもので、活字がいくら新しくても、その頃の匂いをまとっているから。

 私は、活字に触れられる最後の瞬間には、ギリギリ間に合ったのか。もしかしたら、ギリギリ間に合わなかったのか。

 いずれにしても、今回、大栄活字社を訪ねられて、本当に良かったと思う。
 ありがとうございました。
 また機会があれば、寄らさせてください。よろしくお願いいたします。